20年前の話2
震災後暫く(とはいえ結構長い間)家族3人川の字で寝てた。
寝室や自分の部屋はぐちゃぐちゃで壁の土かなんか落ちてるし
余震で箪笥が倒れたら困るから・・・という事だったか。
両親の間で「なんで自分が生きてるんや、代わりに死にたかった」
とか不謹慎な事考えながら泣いていたような。
それはさておき、入試の話。
電車が不通で入試受けに行けるか分からない状況。
大学も被害に遭って入試延期になった所もあった。
受けないなら受験料返すよ・・・って大学もあったが
何とか受けようとしていたので返還の手続きをしなかった。
結局そこは受けに行く交通手段が無くて受験しなかったけど・・・。
そんなんで本命の大学受ける前に違う大学受ける筈が
いきなり本命の大学の本命の学部から受ける事になってしまった。
しかし西宮に行く手段が無い。
当時、神戸から大阪方面に行くには姫路辺りからぐるっと大回りして
大阪に行かなければならなかった。
最悪はそのルートで前日に大阪に行って駅のホームで仮眠取るという
話もしていた(自分が勝手に)が
甲子園に住んでいる父の友人宅に泊めて貰える事になった。
阪神電車が青木まで来ていたので、尚更助かった。
青木を”おおぎ”って読むって初めて知ったよ。
家からは徒歩・バス・JR・阪神を乗り継いで甲子園に向かった。
徒歩・バスといっても普段なら電車がある所である。
各路線が部分的に復旧していて、行ける所まで乗れるものに乗り
無ければ代替バス、徒歩という感じ。
行きは母についてきて貰った。
甲子園は自分がお世話になってる間に水道が復旧したような状態。
なので母は水や紙皿背負って。
で、そのルートは被害の大きかった所を縫うように通っていっていた。
二階が一階になってしまっている家や焼け跡。言葉も出ない。
JRに乗って北側を見たら妙に白かった。瓦礫。
新長田駅は通過したけど何処にあったか分からなかった。
神戸で降りて歩いて三宮へ。
(神戸−三宮の代替バスがあるのは後で知った。)
三宮から青木まで代替バス。
一区画だけ瓦礫の山になっている所など。
青木から阪神電車乗れただけでおおーって感じだった。
父の友人宅で最後の悪あがきで参考書読んだりさせて貰った。
受験頑張れるように、とご馳走食べさせて貰った。
震災後いちばんちゃんと食べたような気がする。多分気のせい。
只でさえ受験のプレッシャーで緊張してるのに飼ってはった猫が
「ええ丸太あるで」と思ったか知らないが乗ってきて眠れず。
受験1日目は日本史が散々で「あんなに良くして貰ったのに」と
泣いた。
2日目は何とかなったが「もうここに来る事は無いのかも・・・」と
泣けた。
どちらだったか忘れたけど、お昼休憩の時に余震があった。
試験前に「安全は確認されています」と案内があって
それを思い出して「大丈夫だよね・・・」と言っていたような。
一緒に受けた友達は2日目終わってすぐ帰宅したそうだが
自分はもう一日泊めて貰って、翌日帰宅。
1日目の本命・文学部は不合格、2日目・社会学部は合格。
本命大学だけど社会学部だった場合は蹴って2番目の大学の
文学部にしようと考えていたが
2番目の大学の被害が大きく、試験を受ける前に
社会学部の入学金の支払いがあった。
2番目に受かる自信は無かったので、社会学部の方に進学する事に
した。
何が人生左右するか分からない。
なのでもう進学先決まってたのに受験料勿体無いからと
2番目の方も受けさせられた。
受けるのはいいけど、勉強もしなさいって・・・複雑。
入学式も当社予定より2週間くらい遅れていたような。
阪急で通える筈が、まだ復旧してなくてJR・阪急と乗り継ぎ。
阪急が復活した時は感動した。
随分時間が過ぎていたので本来なら定期の払い戻しは出来ないが
事情が事情だけに少し払い戻しして貰えた。