社会学的ラブソングアーカイブ

はてなダイアリー終了に伴う「社会学的ラブソング」アーカイブ。

心を打つ歌

スペシャモバイルの鹿野氏コラム読んだ。
これPCから読めるのか分からないのでざっくり内容を書くと
日芸の学園祭の講演会に出た際、学生さんが
「何で今のロックは、音楽家は心を射たれるような(原文ママ
歌を歌ってくれないんですか?」
と質問したそうだ。
鹿野氏は「今ロックミュージックが大衆音楽の中にいい意味でも
取り込まれ、タイアップソングを作るのが当たり前になった」
というような理由を答えたそうだ。
その人はandymori、せっちゃん、民生の歌には心射たれる(原文ママ
そうで、彼らはそういう事の為に音楽やってないけどチャートに入って
いるじゃないか・・・と。
何故だろう。
理由を考えてみた。
かんたんだ。

最初から人の心を打とうと思って作ってないから。

そのアーティストが歌いたい事があって、歌ってる筈なんじゃ。
そこに心寄せるのは聴く人。
心打たれるのだとしたら、歌う人と聴く人とで何か通じるもの、
引っ掛かるものがあるのだ。
最初から人の心を打ってやるぞ、として狙って作ってるんだったら、
タイアップソング作ってるのと同じような気がする。
タイアップを意識しても、そこに自分の主張は込めてる人は多い、
というか逆にタイアップというお題が与えられていても
自分のモノとして表現してはるなーという印象。
今まで心打たれていたのに最近は・・・と感じるのだとしたら
アーティストが変わるだけじゃなく、聴く人も変わるから。
縁、だな。
恩師の「必要な本はどんなに難しい本でもするする読める」という
言葉を思い出す。
心打たれる歌は、きっと本人が必要としてる歌。
打たれないのだとしたら、残念だけどその人が必要だとする歌ではない、
のかもしれない。
本人は厭だろうけどさー。
少なくとも「心を射ってくれる歌を歌って”くれない”」は違うと思うよ。
なんて受身な!って思った。
心に響かない、なら兎も角(言葉のアヤっつうやつかもしれないが)。
ロックが大衆化しようが消費されまくろうがどうしようが、
その関係は変わらない。

とはいえ、確かに心を打つような音楽に出会いにくくなったのは
確かである。
家でスペシャ垂れ流しにしてると「面白いな」と思える歌に
気づけるが、ラジオじゃ毎日おんなじ歌ばっかり。
出会いにくくなったのは、埋もれてしまってるからかな?と思う。
能動的に新しい音楽を探しにいかないといけない。
元々そうだけど、今は特に”ステマ”とやらが多いので。
今までは”ステマ”に気づかなくて済んだってのもあるが。
友達に「探すの疲れた」って愚痴った事もあったな。
あとインタビュー読んでて面白いと思える、心に引っ掛かる話を
見る事が減ったような気がする。
同じバンドを3回脱退して3回加入するとか(今もっと数増えてる?)
「生きるのにも才能が要る」とか自分の作ったバンド脱退したいとか
そういうけったいな話を、最近見なくなったような。
みんな「いい子」だったり、如何にもな綺麗な話だったり。
媒体は紙でもネットでもインタビュー内容は同じ筈なんだが
そういうの読んで「面白そう」と思えなくなってしまった。

しかし小汚い裏事情みたいなんも見聞きしてるだろうに
大変だねぇ。
情熱失ってはらへんし。