先日、翻訳小説を何時読みましたか?というツイが回ってきた。
いつだったっけ?
小学校高学年の「ABC殺人事件」?
「アルジャーノンに花束を」は社会人になってからだよね?
でよく考えたらACIDMAN「新世界」に付いていた
「アルケミスト」だったという。
切欠のツイは翻訳家さんの疑問orリサーチと思われるが
小生のツイをRTなさる時に”翻訳”してしまわれて
「あれ、そこまで言ってないよ」となって、うむむ。
その方が「道化師の蝶」(円城塔/講談社文庫)の解説を
お書きになっていたという。
バンド練習の日、荷物増えちゃって読みかけの京極先生の本だと
ちと重たいわい、と厚みだけで持ってきたのが「道化師〜」で
ツイッターで遣り取りさしてもらった直後に気づいたので驚く。
でも円城さんだったら、そんなに驚く事でもないような気がした。
不思議なのだけど、文字を読んで物語を追っていくのではなくて
文字・言葉を越えて色々なものが”見えてくる”感じがした。
解説読んでそういう話だったのか、と納得した以上に
そんな話だっけ!?と腑に落ちないような気がした。
(なので解説読むのは後回しにした方がいい。)
何で?と言われても困る。
ストーリーとかそんなもの抜きに感覚だけの夢を見ているような気持ち。
(たまにそんな夢を見て疲れる。)
言語を巡る物語のようで、手芸等の人の手から生み出されるモノの
物語のような気がする。
それが美しいんだなぁ。
感覚で読む小説なんだろうと思う。
翻訳家さんは全然悪くないのだけど、円城さんの本の解説にしても
小生のツイをRTする時に言葉をお足しになった事にしても
ちょっと足しすぎなような気が・・・。
翻訳家の性なのかしらん。
て、そういうものなのか?
どうでもいいニュース:
読んでて栄純のぐぐたす(他にもアップされてる?)のETUDEシリーズ
思い出す。