社会学的ラブソングアーカイブ

はてなダイアリー終了に伴う「社会学的ラブソング」アーカイブ。

20年前の話

阪神・淡路大震災から20年。
”復旧”ではなく、震災前よりもっと良い街にしようと
”復興”と言うようになったのが阪神・淡路大震災から
なんだそうですね。
今更なのに変な蓋開いて色々思い出してしまって、しんどいので
大した話ではないけれど書く。

ドンって来たのが最初のような気がする。
光ったような気がするけど、多分後からの報道と混じってる。
こんなん知らんわって位、長く凄く揺れていた。
京阪神で大地震が起こるかもしれないので気をつけなければならないと
新聞記事で見ていた、”京阪神”を”京都”と勘違いしていて
神戸でこんなに揺れてたら京都もっと酷いだろうなぁ・・・と
金閣寺銀閣寺、夏に見学に行った同志社立命館の心配をしていた。
今思えばあほやなぁ、って感じであるが
あまりに長いんで、その後布団被って頭の方に丸くなっていたら
本棚が倒れて来ても避けられるし精精押しピンが落ちてくる程度だろうと
考えていた。
ひゃーって声は出ていたけれど他の音や布団で遮られたようで
親には寝ていると思われていた。
声掛けられて布団から出たら、ガラス障子がコードレス電話の子機とかで
割れていた。
なので廊下には出ないよう、足下に気をつけながら両親の部屋に行った。
まだ揺れがあったのかは覚えていない。
夜中の2時頃の出来事だと思っていたけれど、
その時点で6時過ぎか。
自分の部屋からラジオ持ってきて、一階に下りて聞いていたが
姫路、大阪の震度は発表されていたのに神戸が無くて
扱い悪いわーっと思っていた。
電気つかないから暗かったのと、こんなん学校行かれへんわ
という心配をしたのは覚えている。
当時高校3年、体育の授業に出なかったら耐寒訓練に出なければならず
地震で休みますなんて言って別の日に余分に早起きしたりくそ寒い中を
走らされたりするのだけは厭だった。
前年の青森の地震を思い出して、あんな感じなんかなー
酒屋さんとか大変なんやろなーと考えていた。
どうでもいい心配してる中、父は仕事に行った。
こういう時にこそ、仕事に行かなければならなかった。
何で(手段)行ったんだろう。自転車?
4日くらいそのままだったような。
もう少し明けてから、母は小銭持ってパート先に連絡するため
公衆電話まで出かけていった。
その間に電気が復活。
合図みたいな音がして、すごく怖かった。
電気つけて、取りあえずテレビつけたらいつもとは様子が違っていた。
番組もだし、見ていたら団地が倒れていた。
大変な事になってたんだ、と思っていたら団地ではなく高速道路。
そこで初めてとんでもない事になっていたんだ、と知った。
勿論学校どころじゃない。
そのままずっとテレビやラジオつけっぱなしだったような。
昼過ぎにとりあえず食料品とか買っとくか、と近所のスーパーに
出かけたら、レジの前の人がカレーの材料買いこんでて
呑気だなぁ、と思ったのを覚えている。
その位、当時の実家の近所は被害が少なかった訳だが。
近所は瓦がむっちゃ落ちた家もあったけど、無事だったような。
実家は瓦が重すぎて逆に滑り落ちなかったと言われたがほんとか知らない。
家の中も食器棚から食器数枚落ちかかってるのが扉で止まってたり
ガラス障子が割れたり壁にひびが入ったりとかそんな程度だった。
ただ余震が心配で、まだ片付けたりはしていなかった。

つけっぱなしのテレビ観てたら長田が大変な事になっていて
長田の友人が心配になって電話掛けようとしたら
「この局番は不通になっています」と報道があって
友人宅の局番も含まれていた。

そのまま母と二人でずーっと炬燵に入ってテレビ観てたような。
下手に部屋に戻ったりしてまたでかい揺れが来たら怖いし。
余震も続いていた気がする。
明け方うとうとしてて「よう寝られるなぁ」と感心された。
母はご近所さんと情報交換してたような気がする。

翌日以降もそんな感じだったような。
翌日か翌々日か、空の色がおかしかった。
曇りなのに黄色い。
長田か板宿か須磨の南の方かどこからかの灰が飛んできていた。
長田や板宿なんて歩いていく距離じゃない、そのくらい離れていた。

近所の店に物が届かなくなって、薬局で日用品やカロリーメイト
買うのに物凄く並んだ。
家でじーっとしてるだけなのでお腹は空かないけれど落ち着かないし
カロリーメイトは入試の時のお昼ご飯にする為に必要だった。
近所のスーパーには、全然違う系列のお店のかっぱ巻きとか
入荷していた。
優先的に食料を回してもらっていたんだな。多分。

すごく水の心配をしていた。
水道の復旧が一番最後だったと思う。
近所の小学校に広島の自衛隊の方が給水に来て下さっていたが
余裕かましてた昼に足りなくなったかなんかで予約みたいになってて
夜に念のため・・・と貰いに行ったらアウトだった。
でもどっかから漏れてるところからお水を頂いた覚えがある。
別の日には何とか持って帰れる量でいいや・・・と思ったが
係(?)のおじさんが「遠慮せんと持って帰り」と並並入れて
下さった。
近所の人はお風呂入りたかったんかしらんが一家総出で
水汲みに行ってた。おいおい。

水道が復旧しても、うちな給湯器が壊れていてお風呂に入れず
時々、親戚や母の友達やお隣さんのお風呂を借りていた。
給湯器が復旧した時は、別の友人にお風呂おいでーって
声掛けてた。

当時受験を控えていたけれど、受験どころじゃなかった。
んだけど、夜にドラム缶で焚いた火の側で参考書読んでる子を見て
うちなんか無事だったのに負けんと頑張らなあかん、と思い直して
テレビつけっぱで炬燵で受験勉強を再開した。

学校は1月末に1回くらい行ったような。
友達と会っても家の状況がどんなんだったかという話ばかりだった
ような気がする。
うちよりマシだった家の方が少なかった。
登校日の前に一度担任から安否確認の電話があって
その時に同じクラスの子の被害状況を知る事が出来たが
件の長田の友人はクラスが違ってて分からず。聞けず。
登校日に「無事やで」と別の友人から教えて貰った。
関東の親戚の家に避難していて、電話で少し話が出来た。
後に卒業間際にはこちらに戻ってて会って話が出来た。
普段みたいに「○○読みたいなー」なんて言ってたら
「うち持ってるで、埋まってるけど」と言われ
「ほな掘り起こすん手伝うわ」みたいに返していたような。
今思うと何て酷い事を言っていたんだろう。あほか。
卒業直後にうちの家でTRPGやる事になって
(卒業式の日に部室でやっていた、その続きをやる事になっていた)
その友人が「電信柱が真っ直ぐ立ってる!」と言っていたのを
今でも覚えている。
駅の看板が地べたにあるのを見た、とか。
今思うと同じ神戸なのにそんな被害も無くて、
酷なものを見せていたのだな・・・と思う。

ほんっと大して何も無かった。
でもすごく怖かった。
揺れも怖かったし、何より今後どうなるか分からないのが怖かった。
水が無くなったらどうしよう、とか
食べるもの無くなったらどうしよう、とか。

もっと色々あったような気がするが、書き出すときりがないし
記憶も曖昧なので、取り急ぎここまで。