社会学的ラブソングアーカイブ

はてなダイアリー終了に伴う「社会学的ラブソング」アーカイブ。

あれから15年

阪神・淡路大震災から15年。
1月17日が来る度に「あれから何年」としみじみ思い手帳に書く。
そして分かったような口振りで書いたり喋ったりする。
一生そうしてるだろうと思う。誕生日忘れてもこの日付は覚えてると思う。
今日も偉そうに書くけど、正直な所、私には語る言葉が無い。
被災しました、と言う程の被害は無く*1
かと言って「大変でしたね」「復興しましたね」と
客観的に言える立場でも無い。
なのに書く。書かずにおれん。ごめんなさい。


こないだついった見てたら
> 震災後、神戸のやつは「神戸は復興した」といえば「どこがだよ!
> 現状を分かってない!!」と返し、「まだまだ復興してない」といえば
> 「どこがだよ!必死に復興したのにネガティブなこと言うな!!」と
> 返した
と呟いておられ、不安定だったのだと仰る方があったのだけど、
上↑の引用部分は事実だと思う。
復興したとも言えるし、してないとも言える。
見た目は復興したとしても心はね・・・。
地元新聞*2見てたら、尚更そう思う。


あと、震災について思い出した事色々。
・京都で大地震だ、と同志社銀閣寺の心配をしながら布団の中で
 固まっていた。したら、寝てるぞ神経図太いなと思われていた。
・家中ガラスまみれ
・ラジオ付けたら大阪、姫路が震度5だと言うが神戸が無くて酷いと思った。
・やっと電気が付いたのでTV付けたら高速道路が倒れていた。
・昼過ぎ、友人の安否確認の電話しようとしたらその局番が不通だという
 一方がTVから流れてきた
・翌日か翌々日まで空の色がおかしかった。
 火災の酷かった地区の煙や灰が流れてきていたんだと思う。
・受験しようと父の友人宅に向かう途中に通ったのが被害の大きかった地区。
 友人宅には母が水やら何やら沢山背負って付いてきてくれた。
・駅が無くなっていた。ずーっと瓦礫の山しか見えなかった。
 連絡取れなかった友人宅の近所で、後から「看板が地面に落ちてた」と
 聞いた。
・卒業→入学までボランティアに行っていたが、私自身を含めて自分の事しか
 考えてない奴は考えてない
・救援物資にゴミ送ってくる人も居たけれど、其れ以上に沢山のあったかい気持ちが
 送られてきていた。
 沢山の身だしなみセットとか。人間捨てたもんじゃない
・ランドセルばっかり箱に詰めたら、不在の間に分解された
・茶碗蒸しの器余ってる家多いのね
・現場とマスコミ取材する内容って全然違って見えるのね
・阪急が開通して、泣く程嬉しいもんだと思わなかった。
・何年も経っていても「震災の時大丈夫でしたか」と聞いて下さる方が
 あって*3、ああ覚えておられる方も
 あるんだ、と嬉しく思うのだけど
 なぁんにも無かったので申し訳ない気持ちになった。
・逆に私は「震災の時大丈夫でしたか」と聞けない。
 知らないうちに傷ほじくり返してそうで。
 会社でA先輩に聞いたら、違う先輩が「Aさん行方不明だった」と
 仰っていた。
・実際、バス停で見かけるばーさんは今でも「○○から来た。
 あそこは便利だった。今なんて不便。帰りたい」と見知らぬ人相手に
 呟いている。
 「ここは山ン中だったんだ」と愚痴る人も居る。
 結構いらっしゃるのです、うちの近辺に。
 正直地元人には気分悪いが(他所に比べりゃ便利な方だよ)
 気が触れても忘れないくらいのショックだったんだと思うと
 複雑な気持ちになる。


今だったらついったーだの某巨大掲示板だのみくしだのぐりーだの
色々ありますが、当時あったのだとしたら色々情報流れてたのだろうか。
「神戸に何が出来るのか」と語り合ったりしてくださったのだろうか。
ハイチについては、何か出来る事があれば、やりたいと思う。
今は募金だけかもしれないけれど、無事届くべき人の所に届くよう
祈ってる。

*1:一部損壊だったが大した事は無かった

*2:ドラマやってましたね

*3:正社員してた会社の常務