社会学的ラブソングアーカイブ

はてなダイアリー終了に伴う「社会学的ラブソング」アーカイブ。

オチについて考える

ココロ社さんのブログは、ほぼ毎回拝読している。
「マヂうける〜」とは言わないけれど、昼休みに「お、面しい・・・」と
笑い堪えるのに必死だ。
ただ、今回のは腑に落ちなかった。
話にオチは必要ない - ココロ社
総論は確かに仰る通りだ。が。
今まで話にオチが無い!と言われ続け、「オチが無ければ・・・」という
強迫観念に捉われてしまった小生はどうしたらいいんだい。
関西ではオチが無いと肩身狭いんだよう_。
スペアザの人も「僕らの話にはオチがないので・・・」って必死だった。
何かオチを捏造しないとだめなのかい?
捏造したオチが面白くなかったら、もっと冷たい目するんだろう?
そもそも、日常生活にオチってあるのかい?
あまりにいいオチだったら「ネタやろ」って言うんだろう?
辛い過去が走馬灯のように駆け巡る。
せめて「オチが無いと言われた時の対処法」があれば・・・ッ。
そういえば、何でこんなにオチが求められるんだろ?


思うに、文章というモノは、起承転結がはっきりしてないとだめなんだ。
大学入試対策の小論文で起承転結の結に起を盛り込んだら叱られたし
ロジカルライティング講座でも起承転結はっきりさせろって
言われた気がする。
序破急は?と調べてみたら、はてなキーワードによると
> 「起・承」が「序」、「転」が「破」、「結」が「急」と
> 一般的に捉えられている。
だそうだ。知らんかった。
これは人間の深層心理に「起承転結、特に結がはっきりしてなきゃ
気持ち悪い!」というのがある為と小生は考える。
日常会話や文章であまり起承転結を考えすぎると中々話は進まないし
面倒臭いので、あまり意識しないのだろうけれど
深層心理では「結」を無意識に求めているのに違いない。
で、世の中お笑い流行ってるじゃないですか。多分。
お笑いには大抵「オチ」ありますよね。
なので「結」は「オチ」と呼ばれてカジュアル化(ketsu casualization)し
人は日常会話に「オチ」を求め、無ければ無いで詰らぬと嘆き
バラされたらバラされたで怒らなければならなくなった。
結のカジュアル化。
何となく言ってみたかった。
○○の××化、って言ったら社会学っぽいやん。


あ、「結局”その行ごとに読ませる”パターンでも上手いこと
オチてるやん!」と思ったのは内緒です。
オチ派・アンチオチ派、いずれにしてもオチを考え、工夫する事で
面白い、読み易い文章になる、という事ですね。
やっぱりココロン先生は凄い!